| 大正時代上野の音楽学校(現東京芸大)で学び、長唄の派「植木店」(うえきだな)杵屋六左衛門のもとで修行した明治生まれの亡父の三味線と唄で強制されて手にした笛二本がお稽古の始まりです。6歳から吹かされて10歳の時に竹に孔を開けて笛らしい物を見よう見真似で作り始める。福原英次(後の福原百之助、現人間国宝、寶山左衛門師)の笛に憧れ、吹くもののどうしても出ない音の違いに気付いて作っては見る。子供の事、作れず失敗ばかり、その後ピッチの取り方などの音の理屈が分かるようになって、篠笛の十二種類が出来るようになりました。 福原流の門を叩いて初めて師の使われている笛が長唄の「唄用」に師が考案されていた事が分かり、笛が違うという子供の頃の勘が当たっていた事に自信が持てました。自分の工夫した「篠音笛」は、孔の大きさ、配置を工夫し、邦楽からドレミの洋楽にも対応できるものを完成させ、寶山左衛門師にお見せしたところ、曰く「孔の大きさが大きい小さい無くて、吹き易く笛らしくていいね、それでもピッチが合っている不思議ね」どうしてかともお尋ねになりましたが、お答えしませんでした(笑)その場で気に入った煤竹の笛をお買上げ下さいました。ご愛用して戴いて、舞台で師の美しい音で鳴り響いていると思うと感激です。また、能管も作るようにと注文を戴きました。完成はしているのですが・・・ 一世一代、納得できる「名管」を納めたい、そんな気持ちです。能管の製作には、最低3年かけます。煤竹になる200年を足すと気が遠くなります。 |
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