発見!今に伝わる武田信玄の笛、「甲斐の江」のお話
篠音会(しののねかい)主宰 笛匠 小池裕二郎

平成11年1月の松がとれたばかりの頃、私の所に男女六人の年配の方々が訪ねてきた。
先祖から伝わる笛の修復を頼みたいと言って持ってこられた笛の話です。
笛を愛好する者にとっては興昧ありそうなので以下話題として提供します。
六人の方々は、武田信玄の家臣の末裔で、静岡県榛原郡吉田町に現在住まわれ、そのうちの大石革平氏の家に代々伝わる品で、銘を「甲斐の江(かいのえ)」と言う。見れば龍笛で天正時代の作と言う。
相当傷んでいていつの時代か素人の修理した後があり、(頭部分が逆に、つまり蝉の部が歌口側に付直されていた。)
くの字に曲って取付けてあり、桜の樺は触れば剥げると云う状態のものでした。
時間を戴ければ修復できると安請合い、分解していくと、歌口より上部の頭内部は虫に喰われ、ひどい状態。
幸い表面と管尻にかけて無事であったので修理ができたのだが・・。
その間に大石氏から「甲斐の江」についての先祖からの申し送りの沢山の書状が送られてきて読ませて戴いた。
小説や芝居、映画にしても面白そうな内容で、真実味もあり、これは本物かと一人こころ躍らせた次第。
以下あらましを御紹介しましょう。
信玄が百済から呼寄せた大久保長安(本名大蔵太夫藤十郎泰長安)一族は金掘人足集団であり(父は猿楽師の金春喜然)又、能の前身猿楽師として裏は喋者つまり伊賀の忍者のルーツの一族でもある。
長安は大菩薩峠近くの黒川に金脈をみつけ、信玄は大量の金掘に三百人の武士、金掘、運搬、精製人足二千人を投入し、信玄の二十四将の武将を二名宛て交替で指揮をとらせた。
その家族も集り、山は賑わい、城を落として捕えた御殿女中等を女郎とし数十軒の遊郭をおいた。
やがて掘り尽くして廃山となり女郎の始末に困った武士達は相談し、女郎達に慰労と偽り、急ごしらえの二つの大きな吊り橋で十五夜の月見の宴を催し酒肴でもてなした。
頃合をみて吊り橋を切り落とし三百人全員殺害する。
その後、毎月十五日になると大勢の女達の嘆き悲しむ泣声が呻きとなって谷底から周辺に聞こえ、眠ることもできず、近くの雲峰寺の僧に頬んで供養した後、猿楽師達は「高館の舞」を舞って笛を吹き始めると泣声が止んだとある。
山本勘助がこれを聞いて長安からこの笛を譲り受け、勘助が信玄の家来となった天文十二年(1543)に笛好きの信玄に差出し、信玄はこの笛を「甲斐の江」と名付けて五日、十五日、二十五日、毎月三日供養した。
この供養は現在の雲峰寺でもとりおこなわれ記録が残されている。
女郎ヶ渕と信玄の名付けた渕は花魁(おいらん)ヶ渕の地名で残り、悲話として語り継がれているという。
「甲斐の江」はその後、信玄の女房出頭人小宰相(くの一)に吹かせ楽しんだとある。
そして永禄九年(1566)小宰相(17歳)信玄の媒酌により大熊備前守長秀(23歳)後の小山城城主と結婚。
祝いの品として備前守に武田の大鉄砲、小宰相に「甲斐の江」(名笛)を贈る。
天正十年二月十一日勝頼の命で高遠急援に向かう折、大鉄砲を小宰相に託し、高遠の手前の伊那にて織田信忠一万の軍と決戦、備前軍二千は全員戦死。
小宰相は能満寺の隠し二階に乳姉妹の繁乃と隠れ、繁乃に伴の礼にと大鉄砲と「甲斐の江」を渡し甲斐へ落ちていく。
この繁乃は能満寺十代密堂大和尚の姉で現在鉄砲と「甲斐の江」を所有する大石革平氏の先祖とのこと。
「甲斐の江」申し送りの文書は笛修復が終わって最近ゆっくり読ませて戴いたのであるが、この笛にまつわる不思議なことが起こった。
これも物語として使えば面白くなりそうだから紹介するが、笛の修復に大体目途がついた二月ニ十七日未明三人の男が夢枕に立ち、『いま直している笛はカイノエと言っているがカイノウミと改めるように…』それは何故かと尋ねると、近江でおうみ、琵琶湖。
遠江でとおとうみ浜名湖。
のように甲斐の湖だとの説明つき。
目が覚めても忘れず、夢にしてははっきり記憶している。
早速大石氏に電話、以下会話。
大石「そうですか出ましたか、どんな男でしたか。」
私「大きい男と中柄と小柄の三人影絵のようで顔も衣装も分りません。」
大石「話した人は」
私「大柄の男です。」
大石「それは信玄、お館さまです。『甲斐のうみ』ですか、それで納得出来ました。亡父もおかしな名、と言っていました。」
私「甲斐の湖は富士五湖あたりか」
大石「信玄を葬った諏訪湖です。実は私の方には別が出まして、ハイ、二月二十日頃と思うが遠くで笛と共に鼓の音が聞こえ沢山の花魁が谷の水を呑んでは私達六名を拝んでいる夢で、その時は何とも思わずいましたがニ十三日再び同じ夢を見て不思議に思っていた所でした。この笛が完成し再び美しい音色が聞こえるのを喜んでいるのでしょう。」
かくして「甲斐の江」修復完了。
受渡しも済んでやれやれ胸のつかえも取れたと思いきや、大石氏から電話。
大石「また出まして夢で。」
私「今度はどなた」
大石「小宰相が笛を吹きながら笛の飾りを金の武田の家紋で入れて欲しいと」
私「せっかく綺麗な蔦の葉模様の錦が入って美しく仕上げたのに」
大石「自分もそう思うのですが」
私「お家の大事、あちらからの御注文では仕方ありませんね」
大石「はい、供養と思って宜しくお願いします。」
さっそく京都の金細工師に武田菱の凝ったデザインをして注文をだした。
友人にこの話をすると「面白いねえ、君が映画監督の黒沢明の絵コンテ展で「影武者」風に能笛と太鼓でそれらしく演奏して来たと聞いたが今度は信玄の笛かい、武田に縁があるじゃないか、今度は黒沢が「甲斐の江」の映画化の話で君ンチに出るぞ」
もう亡霊は結構と言いたいが、信玄があらわれ、武田の隠し金山の入口を教えてくれるか、あの花魁達がこちらの方へ出てくれるのなら歓迎したい気もある。
三河国設楽郡野田城。天正元年七月、三万五千の兵を率いた武田信玄は野田城を囲んだ。
落城は旦夕にせまったが、芳休という笛をよくする者、楼上でこれを吹き、その妙音にひきよせられた信玄は、ある夜ひそかに城下へ行き聞惚れていたおり、軽部太郎兵衛の銃丸にあたって落馬、やがて病を発したと伝えられている。
江戸川柳に、「野田できく笛が命のシャギリなり」(八九26)一幕終わって止め柝と同時演奏するのが、しゃぎり(砂切)で太鼓、大太鼓、能管で演奏する。
も一つ「息キの音の調子も狂ふ野田の城」(一一三5)。
この野田攻めでは、長安の金山衆が土木技術で城内の井戸の水脈を断った話も有名。心奪われ命落とした笛の音。
笛好きのおのおの方、他人事ではありませんぞ。名人といわれる演奏には聞き惚れて事故など起こさぬようくれぐれも油断召さるな。
観世太夫作と言伝えられる「甲斐の江」の名笛と大鉄砲、槍刀、黒川の碁石金は大石家から吉田町に寄贈の予定でどなたもが拝観できそう。
信玄の笛は薄墨の笛のように有名になるかたのしみにしている。
ちなみに「甲斐の江」は気品のある姿と音色の名管でした。